「夜中に甘いものが食べたい」三流は食べ、二流は我慢する、では一流は?

健康や美容のため、食欲を抑えるにはどうすればいいのか。という問題に対して、東京大学の山本芳久教授が、哲学者トマス・アクィナス(1225頃~1274)の『神学大全』を解説することで説明しています。

■「節制」とは何か
トマスは「〈節制〉という〈徳〉を身につけるからこそ得られる〈喜び〉がある」と言っています。これはトマスだけの特殊な考えではなく、古代ギリシアのアリストテレス以来、哲学における伝統的な考え方の一つです。
トマスは「節制」について説明する際に、アリストテレスに基づいて「節制ある人」「抑制ある人」「抑制のない人」「放埒な人」の4種類を区別しています。
「節制ある人」と「抑制ある人」は何が違うか? 
一言で言うと、「抑制ある人」は、いやいやながら欲望を我慢して押さえつけているのに対して、「節制ある人」は、節制ある在り方をしていることに喜びを感じている点です。

■「節制」はどうすれば身につくか
トマスやアリストテレスは、「節制」などの徳は「習慣」の積み重ねによって形成されると考えます。
たとえば大好きなスイーツが冷蔵庫にあるとき、「食べる」か「食べない」か、どちらを選択するかは、人生全体のなかで見れば些細なことのように見えて、実はそうではないのです。
そういった些細な選択の積み重ねが習慣化されて、「節制」を身につけられるか否かが形成されてきます。
「夜中に甘いものが食べたい」三流は食べ、二流は我慢する、では一流は?喜びを持って「節制」します。

引用:「夜中に甘いものが食べたい」

─ YODOQの見方───────────────────────────

私も、夜、甘いものを食べるか食べないかで日々葛藤しています。その理由はスポーツをしているためです。少しでも長くスポーツを続けるために、少しでも上達するために、体重制限は欠かせないからです。
そんなわけでこの記事を選びましたが、読み進んでいくうちに、何か違うなと気が付きました。それは、私の「節制」は、決して「徳」を身につけるためのものではなく、スポーツをするための「欲」から生まれたものだからです。
そこで1200年代に書かれた道徳心がどのように変化してきたのか、そもそも「節制」などというものが本当に必要なのかについて、その後の哲学者の言葉から考えていきたいと思います。

カント(1724年~1804年)は、実践理性批判の中で、「欲求から完全に離れているような存在を仮に想定してみれば、それはせいぜい神のような存在でしかない。だから私たちが実際に完全な道徳に到達することはできない。」とし、誰からも命令されることなく、自分の意志で普遍的な「よさ」を目がけなさい。と言っています。宗教色が薄れ、私達の考え方に近づいています。

ニーチェ(1844~1900)は、色々な名言を残しています。その中で印象深かったものに次の2点がありました。
「天国には興味深い人たちが一人もいない。」
「信念は、真実にとって嘘よりも危険な敵である。」
むしろ宗教感を否定し、あるべき論から本音に近い言葉を残しています。

その後20世紀に入ると、哲学は、現象学、構造主義が主流になり、現象を理解し、分析し、問うという手法が主流になり現在に至っています。
特にここ数年来は、IT、AI、バイオテクノロジー、環境問題、グローバリゼーション等々、私達が日々ニュースで見るようなことが、哲学のテーマになっているようです。そんな中、「節制」とはどう扱われているのでしょうか。
不老不死というのは「節制」とは真逆の「欲望」の最たるもののひとつですが、ジョン・ハリスという哲学者は1970年代に、それを肯定する論説を発表しています。「科学がそう進んでいるのなら、それは認めるべきことだ。」という考え方からです。
現代における「節制」とは、1200年代の考え方だけでは語れないものになっていると思います。そして、自分自身もその中で生きているのだと思いました。

参考:カント・哲学早わかり
参考:ニーチェ名言集
参考:いま世界の哲学者が考えていること