9月5日、青山繁晴さんの講演を聴きました。
青山繁晴さんを知っているでしょうか。関西では結構有名な評論家?作家?です。
単なる関西ローカルな人でなく、持っている歴史感により、東京のテレビに露出できない
という比較的稀有な人種の方です。
くわしくはウィキペディアにて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4
私はこれまで色々な人の講演をききましたが、ここまで心を動かされた講演を聴いた
のは初めてでした。
特に、専門分野は政治、外交政策・国際関係論、安全保障であり、講演では、
私の知らない第2次世界大戦に対する歴史認識を語っていただけました。
特に力を入れられていた内容として「硫黄島の戦い」についてでした。
「硫黄島」これをなんと呼ぶかご存知でしょうか?
「いおうじま」ではありません。「いおうとう」と呼びます。
クリント・イーストウッドが監督をした「硫黄島からの手紙(いおうじまからのてがみ)」
は実は間違っているのです。
硫黄島は日本固有の領土です。それにもかかわらず、一般人の立ち入りが許さ
れていない島です。
1945年2月16日 – 1945年3月26日、太平洋戦争末期に小笠原諸島の硫黄島
において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘がありました。
この戦いについては、「硫黄島からの手紙」に描かれているように非常に激しい
戦いだったようです。2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死したよう
です。
なぜここまで戦ったのかというと、当時、米軍は日本本土を攻撃を狙っていたが、
サイパン、グアムからでは日本本土まで、2500kmあり、十分な爆弾を積むこと
ができなかったその為、ちょうどその中間にある硫黄島を拠点として、本土を攻撃
したかった。
それを知った日本軍は、本土攻撃を死守する為、栗林忠道中将を硫黄島に送り込み
最後の1兵まで自害せず戦うように指示した。
硫黄島で戦った日本兵は本土にいる家族を守る為、1日でも本土への攻撃を遅ら
すために戦ったといわれています。
この様子を「硫黄島からの手紙」では描かれています。
敗戦後、米軍はいおうとうをいおうじまと呼び間違えたことで、つい最近まで国土
地理院の情報としても「いおうじま」とされていました。
これを安部内閣の際に、変更するように働きかけたのがこの青山さんだったよう
です。また、民間人でありながら唯一硫黄島に単身上陸することができたのも
青山さんだったようです。
硫黄島では米軍が作った滑走路がいまも残っています。その滑走路の下には
数え切れないくらいの戦死者の遺骨が眠っているそうです。
その戦死者を救い、ともらいたいと言う思いから講演では特に力を入れて訴えて
いるようです。
そのほかにも、自分の知識が浅いことを色々感じさせられた。
例えば、北方領土といえば、歯舞、色丹、択捉、国後と思われがちであるが、
正確には、樺太の南半分、カムチャッカ半島から南の千島列島すべてがもともと
日本固有の領土であったことは意外としられていない。
それにもかかわらず、国も国民も北方4島以外の認識は薄い。
話を聞いていると日本の政策のおろかさを理解することができた。
日本人はもっと歴史認識を深め、国を守るという本当の意味を自覚すべきだと
感じさせられる講演でした。
こういうお話を会社の勉強会とかでやってみるのもいいんじゃないですか?
道徳の時間ということで。
個人的には歴史大好きです。
切り口のいい社会の勉強会とかいいですね。
「新聞を読むのが10倍楽しくなる社会」とか^^;
それもいいかもしれません。ただ私の知識ではそんなに引き出しは多く有りません。
日本人ほど自分の国のことを知らない国民はいないように感じます。
ただそれは意識が低いというわけでなく、戦後安保を他の国に任せてしまったことに
よる危機意識の低下と説明していました。
自国の安全を他国が守る国は先進国では日本だけですから。
だから、中国、北朝鮮になめられる(攻撃されないことがわかっている)ようです。